パチンコをやめたい人達へ|重度の依存症のリアル日記

重度依存の私の日記で「人の振り見て我が振り直せ」効果を促進するブログ

【歴史】約300年前からのパチンコのルーツ|日本上陸まで

こんばんは。生きカエルです。

 

パチンコ依存症は強力な病気です。私が20年かけて自分のカラダを張って、人体実験をしてきて感じたことを様々な切り口からブログに綴っているので、この他の記事も是非読んでみてください。

 

毎日毎日、パチンコへ行かなかったことをツイッターなどで、パチンコ依存症の仲間たちに報告するのは、結構モチベーションを高めるためにもいいと思います。その行動によって、仲間たちの動きもみることができて、頑張ろう!!っていう気持ちも芽生え易いと思います。

 

本当にもうパチンコなんてどうでもいい状態になったらゴールですね。早く皆さんと一緒にそのゴールへ行きたいと思っています。そして

 

この世からパチンコを撲滅

 

しましょう!!一致団結です!!

 

そのゴールを目指すために、まずは敵(パチンコ・パチンコ屋)の歴史を掌握しましょう。どんな歴史があって、今の詐欺施設現金回収施設破滅者製造施設、etc(いろいろ言い回しあるけど)まで行きついたのか?

歴史は未来を作るための最大の武器です。

 

 

それでは今日のお話です。

 

f:id:momo-staysam:20180225224300j:plain

 

【パチンコのルーツ】

今日は我々のような可哀そうなパチンコ依存症を量産してきた憎きパチンコとはどのようにして始まったのか?ということを調べてみたので概要を書いてみようと思います。始まった頃の目的は現代のような奴隷の大量生産が目的ではなかったはずです。では見ていきましょう。

 

・屋外での球を転がして遊ぶゲーム

現代のようにTVゲームやスマホゲームがなかった時代はただ生きるために食べているような生活だったと思います。その厳しい暮らしの中で少しでも楽しくリラックスできる遊びとして「球遊び」があったようです。

古代エジプトの時代に、石を転がす今でいうボーリングのような遊び、ビー玉やおはじきのような遊び、木で障害物を作って棒で球を転がしたりする遊びがあったようです。

「球遊び」ということから言えば、ここが最初のパチンコのルーツではないかと思います。

 

・屋内での棒で球を突いて穴を狙うビリヤードのような球遊び

屋外で石などを転がしていた遊びは、その後、屋内の卓上での遊びに発展してきました。今でいうビリヤードの原型のような棒で球を突いて穴に入れれば得点になるといった遊びです。だいたい1700年頃のようです。

厳しい生活を少しでも豊かにするために考えられた、みんなで楽しくやれる遊びだったのではないかと思います。

 

・卓上で木杭で障害物を作って球を跳ね返らせて穴を狙う遊び

ビリヤードのように障害物がない状態ではだんだんつまらなく思ったのか、木杭で障害物を作って穴を狙うという遊びに発展していったようです。イメージしてください。この木杭というのはもはや現代のパチンコ釘のように並ばせて作られたものでした。

この段階がパチンコの原型といえるでしょう。だいたい1750年頃ということです。うーん250年以上前に誰かが作ってしまったんですね。あ、当時の人は生活を豊かにするために作ったわけで、パチンコ奴隷を作るために作ったわけではありません。だから、この作った人を責めるのはやめておきます

 

・水平型、垂直型への進化

「卓上で木杭で障害物を作って球を跳ね返らせて穴を狙う遊び」がだんだん進化して水平の状態でやるのがご存知「ピンボール」「スマートボール」になりました。

そして、垂直型に進化したものが「ウォールマシン」というものだったそうです。もはや現代のパチンコ台の姿をしています。だいたい1800年後半頃には作られていたようです。

 

・ウォールマシン

1895年にイギリスで誕生しました。その頃も衝撃的な面白さだったんでしょう。瞬く間にブームになったようです。いろいろな台が作られました。

この頃は球が穴に入って当たりになっても小銭やタバコがもらえるといった遊びだったようです。現代の奴隷化システムを築くほどのギャンブル性はなかったと思います。このまま発展しなければよかったのに。。。

 

・ウォールマシン日本上陸

1920~1940年代に世界各国へ輸出され日本にも上陸しました。兵庫県の「宝塚新温泉パラダイス」という遊技場に登場したようです。

戦前の貧しかった時代にそんなものを目にしたら頭から足先まで衝撃が走るくらい、こんな楽しいゲームはない!と思ったことでしょうね。だって全く思いつきもしない楽しそうなゲームなんですから。

そして、球を打ち出すパチパチという音から、「パンチコ」という呼ばれ方になったとされているようです。

ここは一旦突っ込んどきましょう!!

「へんなもん日本に輸出しないでくれよーー」と(笑)

 

・パチンコ屋の出現と禁止(戦前)

1927年頃、入賞すると2~3銭が返ってくるというパチンコを平野はまという女性が自宅の玄関先でささやかなものとして始めましたが、現金がでてくるのは賭博的だとすぐにパチンコが禁止されたそうです。

そのまま禁止しといてくれたらよかったのに。。。

そして、現金を出すのが禁止なら、お菓子やタバコにすりゃいいだろうと誰かが考え、名古屋で日本初のパチンコ屋が営業許可をとり開業します。その後爆発的にヒットしすぎで次々と禁止されていき、第2次大戦前にはパチンコの製造販売が一切禁止になりました

そのまま日本から消えてくれればよかったのに。。。

 

・パチンコ屋の復活(戦後)

戦後、進駐軍の慰安施設で復活したようです。その後公式に営業許可を受けて開業したのが「浄心遊技場」という所でした。正村竹一という人が1946年に名古屋で開業しました。正村竹一という人は「パチンコの父」と呼ばれています。

この人は純粋に遊びとして復活させただけだと思います。奴隷化考え出した張本人ではないと思います。

これを皮切りにどんどん憎きパチンコ屋が増殖していきました。

 

・三店方式

現金を景品にしてはいけないという縛りを上手いこと掻い潜るため考案されたのが「三店方式」です。これは警察OBだった水島年得という人が1961年に考案しました。

現在の「パチンコ屋」「交換所」「景品問屋」と一緒です。独立した3店で特殊景品を買い取るという形式にして良しとするものです。

わざわざ三店方式なんて考案しなくてよかったのに。。。

 

このような歴史が経て、今の奴隷を大量生産するパチンコ屋が出来上がりました。

 

【奴隷の大量生産をするパチンコ屋を作ったのは誰なのか】

ルーツを探ってきましたが、パチンコに関する3人のキーパーソン、日本で初めて自宅の玄関先でささやかにパチンコ屋を開いた「平野はま」さん、一度禁止されたパチンコ屋を戦後復活させた「正村竹一」さん、今のパチンコ屋を存続させるために三店方式を考案した「水島年得」さんは、奴隷の大量生産を目的にしていたのではないと思います。

この日本人3名は、ただ純粋に暮らしを豊かにするための遊びとしてパチンコに関係したんだと思います。

 

では、

・今の奴隷を大量生産する仕組みを作ったのは一体誰なのか?

・この仕組みで得をしているのは一体誰なのか?

・日本に怠惰な人間を量産しようとしたのは誰なのか?

 

これ以上は皆さま各自で調べてみてください。(謎の組織にスナイプされるかもしれないので。。)

 

【まとめ】

パチンコ自体のルーツは暮らしを豊かにするためのささやかな遊びとして日本に入ってきたということは分かったと思います。

今の奴隷大量生産の仕組みの真相については各自で調べてもらうとして、とにかくシンプルに

 

自分や家族を守るためにパチンコ屋に行くのはやめましょう!!

 

おすすめ記事

www.revive-frog.com

www.revive-frog.com

www.revive-frog.com

www.revive-frog.com

www.revive-frog.com

www.revive-frog.com

www.revive-frog.com

www.revive-frog.com

www.revive-frog.com

www.revive-frog.com www.revive-frog.com

 

記事は100以上ありますので、もしよかったらパチ屋に行ってしまう時間を削って、当ブログを読んでもらえればうれしいです。

 

 

最後までありがとうございます。

コメント頂けると喜びます。